学園紹介
学園の歴史
長崎純心高等女学校の開設
1934年6月9日大浦天主堂の「信徒発見のサンタ?マリア」の祭壇の前で教育女子修道会「長崎純心聖母会」が誕生、同年12月8日「無原罪の聖母マリアの祝日」に「純心女学院」の認可申請を長崎県に提出、1935年 4月西中町教会の仮校舎で最初の入学式が行われました。集まった入学生は28人。貧しくすべてに不足していましたが、豊かな教育愛に燃えていました。生徒たちを大切に教育しようと決意したとシスター江角ヤスは語っています。一方、高等女学校の認可申請準備も着々と進み、家野町(現在の文教町)の校地に5棟一連の美しい白亜の校舎が完成、1936年3月、念願の「長崎純心高等女学校」の認可が文部省から届き、純心教育は漸く制度的にも整いました。ところが創立者早坂司教は、1933年に脳溢血で倒れて以来小康を保っていた健康が快癒に至らず、任務遂行に耐え得ないと判断して長崎教区長の辞任、郷里仙台に退くことになったのです。
欧米の教会にも知名度が高い国際的宗教人であった早坂司教を失うことは長崎教区にとっても、取り分け誕生したばかりの純心学園にとっては大きな痛手になりました。
この時からシスター江角が純心女子学園の歴史と責任を双肩に担い続けることになりました。
長崎原爆と純心女子学園
1.戦争の時代
学園創立からほどなく日本は不幸な戦争の時代に進み、1941年太平洋戦争が始まりました。
戦局が厳しくなると学生?生徒までが「学徒動員」として兵器工場で働くことになりました。戦争の末期、1944年になると高等女学校の2年生以上、つまり13~16歳の少女たちまでが学業を離れて毎日工場で働いていました。動員された生徒たちは、学校ごとに軍隊のように部隊の形をとり学徒隊を作りました。純心高等女学校の場合はこれを「純女学徒隊」と呼びました。
2.原爆投下の日
学徒動員の生徒たちは夏休みを返上して工場で働く日々が続いていました。午前と午後に分けて交替で工場に出勤していました。
1945年8月9日の朝のことでした。校長のシスター江角ヤスがシスターたちに次のように申しました。
「6日に広島に新型の爆弾が落とされ、大変な被害を受けたということです。しかも、今日は長崎が危ないという噂があります。余程の用事がないかぎり、工場の引率の当番がない人は、三ツ山町の開墾地に出掛けて下さい」。三ツ山町は長崎市北部にある帆場岳(ほばたけ)の緩斜面地域で、当時、純心はそこに疎開地を兼ねたささやかな開墾地を持っていました。午前組の動員生徒を工場に送り出したあと10名余のシスターたちが、大八車を引いて三ツ山町の開墾地に出掛けました。三ツ山町は爆心地から約3キロ離れた地にあり、学校は1キロ200メートル余の地にありました。
その日、シスター江角ヤス校長と4人のシスターが学校に残りました。
11時2分 ものすごい閃光と爆裂音とともに長崎の空が暗闇に閉ざされました。三ツ山の松の茂みの中で作業をしているシスターたちは何事が起こったのか皆目見当がつかないまま、地面に伏せました。
暫くすると薄明りが戻ってきましたが、やがて浦上の町の空から煙と灰が三ツ山の開墾地の上空に押し寄せて来ました。爆風に乗って飛んできた燃え残った二、三枚の紙きれが松の小枝に引っ掛かりました。拾ってみますと、聖書と学徒動員に出ている純心の生徒の名簿の燃え残りの紙片だったのです。
「純心が燃えている!」と知ったシスターたちは直ちに学校に戻り始めました。
炎の海と化した浦上から全身焼け爛れた人々が水を求めながら山地の方に逃げて来ます。その逆方向に向かってシスターたちは走りました。やっと学校に辿りついたとき、倒れた校舎に既に火の手が回っていました。シスター江角校長はコンクリートの壁の下に挟まれて重傷を負い、救い出されて防空壕に横たわっていましたが、駆け戻ったシスターたちに、直ぐに工場で被爆した学徒動員の生徒たちを探しに行くようにと命令しました。浦上川の流域には水を求めてきた人達が、累々と折り重なるようにして死んでいました。その一人ひとりを抱き起こし純心の生徒を探しました。既に生き絶えていれば、校庭に連れ帰って茶毘に付し、傷ついた生徒たちを救護所に送る不眠不休の救護活動が続きました。江角校長をはじめ傷ついたシスターたちは三ツ山の開墾地にあった小さな仮小屋に移って、第11医療隊三ツ山救護所を開設した永井隆博士の治療を受けていました。
その仮小屋に横たわるシスター江角校長のもとに、救護所で亡くなっていく生徒たちの様子や、傷もなく無事でよかったと喜んで家に帰った筈の生徒たちが、髪の毛が抜け、歯茎から血を出して次々に亡くなっていく様子が毎日のように報告されました。とうとう214名の「純女学徒隊」の生徒たちが原爆によって生命を奪われてしまいました。
3.「純女学徒隊」の願いと祈りによる学園の再建
シスター江角校長は考えました。「愛する教え子たちを 214名も死なせてしまった。 どうして再び教壇に立つことが出来よう。余生を教え子たちの冥福を祈って過ごそう」そう決心し、学校を閉じる準備を始めたのです。
このことを聞き知った亡くなった生徒たちの父兄が、相次いで三ツ山の仮小屋を訪れて来て申しました。「わが子を亡くしたのは、大きな悲しみですが、あの悲惨な状況にありながら、聖母賛歌を歌い、祈りつつ清らかな最期を遂げてくれたのは、何よりの慰めでした。これは純心教育のお陰です。子どもが、あれほど愛し、最期まで心配していた学校を閉鎖しないで下さい」と訴えたのです。
このことがシスター江角校長に勇気を甦らせました。「あの子たちが純心が続くことを望んでいたのであれば、どんな苦労があっても学校を復興しよう」と、焦土と化した原子野から、純心女子学園の再建を決心したのです。「純心がよくなれば、亡き純女学徒隊の生徒たちが喜んでくれる、よい純心教育を行って平和を愛する生徒を育てよう」。原爆後の学園の復興はこの思いに支えられてきました。
1949年に校墓「慈悲の聖母」を建立し、台座の中央に永井隆博士が「純女学徒隊」を偲んだ歌 「燔祭のほのほの中に うたいつつ 白ゆり乙女 燃えにけるかも」を刻み、毎年の慰霊祭で在校生が斉唱しています。
4.「恵の丘」と原爆養護老人ホーム
シスター江角の心の中には自分は原爆で亡くなったあの子たちの供養のために生き残らせて頂いたので、「純女学徒隊」の生徒が生きていたならば行ったであろうことを自分が代わってしなければならない、という思いが何時もありました。そのことをシスターは「私は原爆のあとかたづけのために生き残らせて頂きました」と表現していました。 「恵の丘」にある原爆ホームの開設は、原爆で亡くなったあの子たちに代わって、原爆孤老の方々のお世話をしたいという気持ちから始まったものです。
5.世界平和を祈り続ける生徒たち
シスター江角は純心に学ぶ生徒?学生たちに「純女学徒隊」の願いと祈りの心をを引き継いで行くように懇々と「純女学徒隊」のことを語り続けました。1950年勃発した朝鮮動乱は、平和の喜びをやっとかみしめ始めていた多く人々に強い危機感を与えました。これは純心学園の生徒の意識にも鋭い影響を与えました。一人の生徒が「世界平和のために祈ろう」と提案し、毎朝8時から「世界平和のためのロザリオの祈り」が生徒たちの手で実行されるようになりました。そしてこの祈りは61年後の現在も継続して実行されています。
シスター江角これを喜び、病に倒れるまで毎朝生徒たちと共に「世界平和のためのロザリオの祈り」を祈り続けました。1980年 9月、国連の軍縮問題研修員(フェローシップ)が長崎を訪れ純心を訪問したとき、この「世界平和のためのロザリオの祈り」を知って、非常な感銘を受け、国連から「平和の楯」が贈呈されました。
今もなお学園では、「純女学徒隊」の祈りに支えられた学園の教育が継続されているのです。
戦後の再建の時代
1.大村時代と純心女子専門学校の開設
こうして原爆被爆の廃墟のなかから第二の創立期とも言うべき戦後の再建の時代が始まりました。学校再開の決意はしたものの原子野と化した長崎には教室に仕える建物も部屋もありません。そこに大村市植松町にあった旧第21海軍航空廠女子工員宿舎を借り受ける交渉が成立し10月10日移転することが決定したのです。長崎市を出ることが出来ない生徒たちは市内の学校に転校手続きを取りました。大村も戦火の跡が生々しく荒れ果てた工員宿舎の環境を整備して11月授業を再開しました。被爆時には700名余在籍していた生徒が 170名余に減っての再出発となりましたが、教師も生徒たちも久し振りの教室でした。 平和の時代の到来をこれほど感じさせるものはなかったと語り継がれています。
この大村時代に学園創立以来の念願であった純心女子専門学校(神学科?被服科)の設置が1947年3月31日付けで認可されました。特に神学科の開設は女性にカトリック神学や哲学を学ぶ機会をつくろうという当時としては画期的な構想でした。
2.新制中学校と新制高等学校の発足
戦後の学制改革が進み、1947年3月学校教育法が制定公布され、同年新制中学校、1948年には新制高等学校が発足、旧制高等女学校が廃止されましたので1949年純心女子専門学校の学生募集を停止しました。一方、学園では原爆で焼失した家野町キャンパスの復興の努力を続けていました。原爆後の11月には生き残った園児を集めて焼け跡の青空園舎で純心幼稚園を再開していました。1948年には大村の旧海軍施設の校舎一棟を家野町キャンパスに移し、純心分校として新制中学校と新制高等学校を開設しています。
丁度その頃、純心に払い下げが約束されていた旧第21海軍航空廠女子工員宿舎と土地が政府の都合で返還を要請されたのです。学園はこれを機に家野町の旧狡地に復帰することを決定、1949年4月、幼稚園だけを当分の間残すことにして純心学園本校が家野町キャンパスに本格的に移転復帰しました。
1961年には大村純心幼稚園を閉じて、戦後16年間の大村時代が終わりました。
3.純心女子短期大学の開設と新しい出発
1950年は学園の歩みの中でも画期的な年となりました。新学制による短期大学制度の施行に合わせ旧純心女子専門学校を母体として逸早く純心女子短期大学(社会科?保育科)の設置申請を行い、全国に開設された129校の短大のうち西日本における唯一のカトリック短大として開学したのです。「社会科」は戦後の新しい教科目でした。設置認可申請にあわせて中学社会科教諭の養成を目的に教職課程も申請しました。特に長崎という独特の歴史と文化を持つ地域社会を基盤にしたカリキュラムは独創的で「長崎学」研究として、現在まで引き継がれています。家野町の学園敷地は、中学?高校も生徒数が増え手狭になって来ました。短大の将来の発展のためには独立したキャンパスが必要でした。1975年、短大創立25年を記念して三ツ山キャンパスに移転、教育研究のさらなる充実を図ることになりました。
4.長崎純心大学の開設と大学院の設置
社会科、保育科の2学科で発足した短大も、その後45年の年月の間に時代の要請に応えて英米文化科、社会福祉科の学科を増設しましが、1994年に学園は新たな挑戦に取り組みました。それは短大から四年制大学への改組転換の道の選択です。時代の変化と地域の要請に応える必要と、何よりも創立者の「建学の精神」に沿うための決断でありました。
1994年に長崎純心大学 人文学部 比較文化学科、現代福祉学科を開設して以来、2003年までに短大を改組しながら人間心理学科、英語情報学科、児童保育学科を順次開設し、1学部5学科の基本構想が完成、2006年3月には短期大学部の廃止を完了しました。
その間、時代の動向と学園の教育事業としての将来を勘案し、四年制大学開設の当初計画を大学院の開設を前提に立案していましたので、学部第1期生が卒業を迎えた1998年大学院人間文化研究科人間文化専攻修士課程を開設、さらに修士課程第一期生修了に合わせて2000年に同博士後期課程を開設しました。