学園紹介
創立者?初代学園長
創立者 早坂久之助司教 (1883~1959)
創立者早坂久之助司教は、日本人最初の司教という歴史的な肩書きを持っています。
F.ザビエルは日本にキリスト教を伝えた時からやがては日本人司教が誕生して日本の教会の責任者になることを願っていました。
早坂司教は仙台の生まれで旧制第二高等学校を卒業すると1905年ローマのウルバノ大神学校(現在のウルバニア大学)に留学、ローマ滞在中に司祭になって帰国しました。1921年からは駐日教皇庁使節の秘書、文部省宗教制度調査会委員を務めるなど教会内外で活躍していた時、1927年教皇ピオⅩⅠ世によって日本人最初の司教?長崎教区長に選ばれたのです。
教皇はローマの聖ペトロ大聖堂で自ら司教叙階の式典を執り行ないました。実にF.ザビエルの願いが378年目に実現した日本のカトリック教会の記念すべき慶事でした。ローマからの帰国の途次、欧米諸国を歴訪して歓迎と祝福を受けますが、その旅路においてこれからの日本が世界の国々と交流して行くためには、欧米社会の基盤になっているキリスト教的世界観?価値観に立つ国際人の養成が急務であることを痛感します。
一方、教区長として着任した長崎においてもカトリックの教育理念に基づく女子の高等女学校を設立して欲しいという強い要望がありました。
早坂司教は純心の創立を決意しますが、先ず純心教育に生涯を捧げて奉仕する女子修道会を設立し、その修道会を設置母体に学校を創立することを計画し準備に着手しました。
初代学園長 江角ヤス(1899~1980)
学校を始めるには教育の経験を持つ優れた人材が必要であり、さらに修道会を設立するには深いカトリックの信仰を持ち同時に修道会入会の希望持っている人物が必要です。
その頃、京都府立第一高等女学校で数学を教えているカトリック信徒の女性教師がいました。江角ヤスです。
当時、日本で唯一女子の入学を認めていた東北帝国大学の理学部数学科を卒業していました。
東北帝大に在学中、友人に紹介された一冊の本『キリストに倣いて』によって教会に導かれて受洗、より良く神様に仕えるために修道会入会を希望していたのです。このことを知った早坂司教は純心学園創立の熱い願いを述べた長い手紙を江角ヤスに送りました。
江角ヤスは聖母マリアへの深い愛を持ち、仙台の教会のステンドグラスに描かれた26聖人の殉教画によって信仰の地長崎に関心を寄せていました。「長崎の地に聖母マリアを理想と仰ぐ学校を創立する」、このことに神様の招きを感じた江角ヤスは早坂司教の願いをためらうことなく受諾しました。早坂司教は江角ヤスと同志となった大泉かつみを4年間フランスに留学させて新しい教育事業の準備にあたらせます。二人はフランスのカトリック学校の視察をはじめ種々の研鑽を積んで1934年6月1日帰国します。